なめらかな日々

水のように生きたい

幼いころの奇行

 バスに揺られながら下に目をやると、私の黒いリュックサックに虫がよちよちと這っていた。見ればダンゴムシの赤ちゃんだった。

 これがゾウリムシだったら、私はこわごわと手で払いのけてしまったかもしれない。私にとってダンゴムシとは、特別なゆえんがある。

 小学校時代、登校時の習慣だった。姉たちと家を出て、通学路の近所の畑に蠢くダンゴムシを一匹ずつ捕まえては手のひらに載せ、当時は小さかったであろう手をお椀型にしていっぱいになるくらい集め、そのまま学校近くのデイリーというコンビニまでダンゴムシたちを抱えて歩いていた。そしてデイリーまで来たら、「ばいばいダンゴムシ」といいながら愛をこめて花壇へ放っていた。小学生ならではの狂気を感じる。なぜそんなことをしていたかは不明であるが、ダンゴムシという、突っつけばすぐに丸まる気弱な虫に対して、庇護欲というか愛着を抱いていたことは確かだ。だから丸まる習慣のないゾウリムシはだめだ。全般的に虫は苦手だけれど、そういう記憶が残っているためにダンゴムシは触れるし、一定の思いやりを持っている。

 そのダンゴムシの赤ちゃんはグレーに少し赤みがかった体の色をしていた。私がまず指に載せようとして進行方向に人差し指を差し出しても、触覚で異物であると感知して別な場所へ彷徨してしまう。すこしして、やっと赤ちゃんは指の腹に乗ってくれた。私は赤ちゃんを手すりに載せようとしたが、思い誤って赤ちゃんは手すりから落下し、行方がわからなくなってしまった。

 そのときは、あ、どっかいっちゃった、というくらいで特別な感慨は沸かなかった。一時は過ぎたこととしてまた車窓をながめていたのだが、意識は先ほど出くわしたダンゴムシの方に吸い寄せられていって、次第にバスの中に迷い込んでしまった赤ちゃんが外へ出られる可能性について考えていた。出口はすぐに閉まるし、人にも気にされないからそのまま飢えて死んでしまっても不思議ではない。もしバスの中に食料があったとしても、小さいから人に踏みつけられる可能性大だ。すでに姿の消えた赤ちゃんに対して、不親切なことをしてしまったことを少し後悔した。私は指の腹に赤ちゃんを載せ続け、赤ちゃんと遊べばよかったのだ。そうして停留所についたらそのへんで降ろしてやればよかった。もっと可能な限り生命を慈しむ心が、私には必要なようである。ダンゴムシの赤ちゃん、強く生きてほしい。