なめらかな日々

水のように生きたい

運命の人

 去年のバレンタインがすごく印象的だったのは人生ではじめて告白をしてみた日だったから。

 

「こんなに天気いいんだからどっかいこうか」

 かんぺきに玉砕したけれどバレンタインデイ当日はお膳立てしたみたいに晴れていて、湾岸沿いに車を走らせながら海を見た彼の思いつきで福岡から日本の最西端くらいのところまで海を見に行った。

 人がいない鯨博物館をうろうろ見てまわり、美しい夕日に刺された彼を写真に収めた。私を家に送り帰すころは真夜中で、別れがたくて涙目になる私を彼は「今日一日一緒におったやろ?」とやさしく諭した。

あそこで会うのをやめていれば皺ひとつない綺麗な思い出になったのに、私が踏み間違ったことでもともと脆い足場が崩れた。

 

 朝見た夢にいまだ若干引きずられている。バタフライエフェクトという映画を最近観たせいかそれにちなんだ悲しい夢。

 タイムループして彼に思いを伝えにいった。それは今を生きている彼ではなく当時の彼で、私の過ちも何もしらない彼だった。紳士的で甘い顔をした、今とはぜんぜんべつの彼。タイムループなんだから道理にかなっているんだけど、私は彼と今を生きたかったのだと知った。

 一年経って、私のこと思い出したりするのかな? とか考えてみてもしょーがないことばっかり振り返るけど、思い出すわけがないと知っている。ただでさえ私の話すことを瞬時に忘れる彼だったから。今の私は今の彼に嫌われている。それは惨憺たる事実で変えようがない。

 だけどひとつだけ彼がずっと覚えてくれていたことがある。

 

「"運命の人"が好きなんだもんね」

 

そういってスピッツのなかで当時私が好きだと言った曲をかけてくれていた。スピッツのライブに一緒に行きたいねえなんて話していた。

 だけどバタフライエフェクトで何度同じことを繰り返したって、私と彼は結ばれない。彼は排他的な思想を持つ人種差別主義者であることは、私がどんな努力をしたって覆せない運命、予定調和の悪夢だった。子供の頃からぼんやりと運命とか必然とかスピリチュアルファンタジーを信奉していたけれど、「運命の人」であってほしいと思った人は「結ばれない運命の人」だった。

 私は彼と出会ってたしかに愛を知った。ひどいこともたくさん言われたし彼と一緒にいると自分が矮小な存在に思えた。そして彼は私をこれっぽっちも好いていない。それでも彼が未だ好きなのは愛以外に何があるだろう。エモい思い出に酔ってるだけならそのほうがいいけど。

 

私が彼に渡したホワイトチョコレートブラウニーの味を覚えている人間はもういない。

 

運命の人

運命の人

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今週のお題「チョコレート」

長崎エスケープ

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 いま、長崎に行きたい。私の父は行ったこともない長野県に憧れがあり、長野に定住したいと熱望する。いったいどんな見解かしらないが、私はたぶんそれと似た思いを長崎に対して抱いている。すごくつよい思いだ。

 一年以上前に駅前でジャルジャルがお笑いライヴをしていた。テカテカのスーツを30m先くらいから拝んだ。しかし、あの天下のジャルジャルでさえ観客はそこそこいるかなくらいだった。人はどんどん少なくなっている。コロナ騒動もあり、よく食べていた江山楼というちゃんぽん屋さんの一店舗が消えたらしい。

 私の住む福岡はというと、繁華街の土地値は三大都市に負けず劣らずの一等地らしい。たかが九州の最大都市ってだけなのに、高級車がびゅんびゅん通る。ビートルもジュリエッタもコンチネンタルも我が物顔をして走り去っていく。大人になるにつれ、周りに自慢くさい人が増えてきた気がする。それになんだか最近忙しい。自己分析だの、ポートフォリオだの、面接対策だの、企業説明会だの早期選考だのやることいっぱいで沸騰しそうだ。そんな閉塞感のなかふと、長崎のことを思い出す。

 隈研吾設計の近代建築、長崎県立美術館のそばに水辺の森公園というおおきな公園がある。小さい頃よく長崎のいとこと凧揚げなんかして遊んだものだ。大きな木の日陰で小休憩をしながら開放的な芝生をながめ、川辺に肌を浸す。水辺はキラキラして、足はつめたくて、風通しはよく、お気楽な幸せを感じていた。港のそばには洒落たバルやイタリアンなどが立ち並ぶ。長崎の船が水の上をゆったりとすべる様子をながめていると、時間もすぎるのが緩やかに感じる。

 原爆資料館にはもう一度くらい行きたいし、大浦天主堂も小学校の修学旅行以来見てないし、隠れキリシタンの歴史を再度読み解きたいし、それには遠藤周作記念館への来訪が欠かせないだろう。そして長崎の夜景は格別に美しい。コンパクトであるがゆえたのしさが詰まった街だ。

 長崎では多く県外の人を集客するランタンフェスティバルも今年は中止。天下のハウステンボスですら規模縮小して営業。シャッター街と化した商店街の物寂しさったら、筆舌に尽くしがたい。ただ行きたいってだけじゃなく使命感すら感じている。

 路面電車に乗り、長崎をめぐる。そんな日が願わくば早く来ますよう。

 

 

2020.12.31

私が20年ちょっと生きて知ったのは弱そうな人間は搾取されるという事実だった。

そしてすべてが円環をなしている。

人に対しての態度は鏡になって自分に必ず反射する。

誰かを傷つけた分だけ私は等分に傷ついている。

少し生まれるタイミングが違ったら、わたしはきみだったかもしれない。

ちょっとずつ世の中のことわりがわかってきた。すこしずつ歳を重ねて大人になっていく。

異世界からの着信だったらいいのにな

 街を歩いていると、たまに公衆電話がぬらりと私の前に現れる。いつもは無意識に存在を無視しているところなのに、「落書きや張り紙をすると法律で罰せられます」という但し書きまでまじまじと見てしまった。子供の頃、姉たちと遊びに出かけるときは親にテレホンカードを持たされて、公衆電話で連絡するよう言い聞かせられた。電話番号のボタンを押すときはドキドキして、呼び出し音のなか母を思ったものだ。

 先日、夕暮れごろに自宅の電話が鳴った。プルルルルル、なんちゃらです、と子機がしゃべる。最近外国に住む従兄弟から電話があったし、またそれだなと深く考えず電話を取ろうとすると、「コウシュウ」の文字が浮かんでいた。

  電話を取る。

 「…………」ガチャ。

 相手がこちらの無反応を確認し、公衆電話の重い受話器を元の場所に収める動作。相手の行動が電話に乗せて明晰に伝わった。

 ただ公衆電話から無言電話がかかってきたというだけ。なのに私はこんなものにロマンを感じてしまう。こちらの家のことを考え、そのためだけに硬貨だかテレホンカードだかを消費し、話もせずに切る。そんな気色の悪い人物は一体誰なのだろう、とすごく気になる。緑色のずんぐりした電話機を見つめる人間の横顔が脳裏に浮かぶ。この公衆電話が私の携帯電話にかかってきたならもっと面白い考察ができたのに。

 公衆電話からの連絡はその後ぱったりと絶えた。でも私はやっぱり期待してしまう。非日常へ連れ去ってくれる何者かの存在を。

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つくりものみたい

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 好きなアイドルグループの初期メンバーがまたひとりグループを旅立った。あのアイドルグループがいつの間にか私の中で大きくなっていたことを知ったのはドキュメンタリー映画を観たときだった。今は去りし神話的存在の絶対的センターが人知れず苦しみを抱え、それでも必死にパフォーマンスする姿を見てボロ泣きした。そのとき小さな違和感が私を刺した。涙腺を刺激するこの感情は本当に自分がつくりだしたものなのか、疑わしかった。

 いつも自分の考えていることがあまりよくわからなくて、人と一緒にいるときは尚更自分の意志は不透明になって、いつも一緒にいるはずの私の精神は解離したかのように漠とする。遠野遥じゃないけれど。

 小旅行の出先、売店で売られていたドライフラワーを買った。その花々は今私が使う卓上に飾られている。素直にきれいな花だと思った。壁面に貼ったボルタンスキーとシュヴァンクマイエルのポスターを引き合わせるとお洒落に見える。しかし今考えれば私は本当に花を見てかわいいと思ったのだろうか? 花をきれい、かわいい、と思う自分を無意識にブランディングしたのではないか、そのように思ったりもする。

 対象物に対し、混じり気のない気持ちを抱いていると確信できるものは私の周りにいかほどあるだろう。お洒落でポップな音楽が好きなのも自分をそう偽ってお洒落な人間ぶりたいだけ? 化粧を施した自分の顔を多少気にいるときがあるのも人に見られるのが不安だからそう思いたいだけ? いつか自分の制御できないところまで彷徨してしまうのではないか、私が私とともにある限りその思いは消えない。 

ダイバーシティとか

 定期的にしんどくなるのは多分しんどい外的要因があるからだ。何も感じなければ辛くならない、だから私は感情を殺したい。

 珍しく電車を使ったのだけれど、線路の魔力というものはかなり強い。足が吸い込まれそうになる。実際ホームにすべり込む電車のスピードはゆるいからダイブしても死ねなさそうだけど。死ぬなら勝手に死ね! 人身事故による遅延の影響を受ける電車通学の人らはよく、そうやって吐き捨てる。すみません。私は線路に飛び降りてしまった人の代わりに心のなかで謝る。飛び降りたくなる人の気持ちがそのときわかったから謝った。でも私は普段バス通学だから飛び降りたくなる人の気持ちなんて今までわからなかったし、人に迷惑かけるのよくないねと思ってた。

そうやって人の気持ちを理解しない人世の中にはたくさんいる、障害者を忌む人は実際障害を持たないと障害者の気持ちはわからない、貧困を蔑む人は一家転落しないと貧しいということの苦しさはわからない、そういうふうにだいたい出来上がってきた世の中のつくりがわたしはひどくかなしい。トランプが再選したらやばみだなと思う。

 女性蔑視的なBEAMSのTシャツが炎上してたけど、私はクリープハイプも炎上すればいいのにと思う。ていうか、クリープハイプの楽曲に罪はないから尾崎世界観が炎上すればいい。女の体の価値が変動するということをバカにしてる、心の底から見下しきってる。そう尾崎世界観は女じゃないから、女の気持ちなんて全然わからないからね。性的搾取ばっかりで嫌になる。

 今世を捨てたくなる期は定期的にくるけれど、多分すっごくハッピー期ももうすぐやってくるから、スピッツきいて人生ごまかしていく。

無常のなかで

人の粘膜のにおいとぼってりした肉の重み、早くなったり遅くなったりする鼓動、呼吸する空気の流れる音、熱気を帯びた体温。

私が知覚しうるかぎりの情報を外界から受け取ることで、ああこの人は生きているのだと感じる。同時に自分が生きていることを思い出す、強く自認させられる。死に傾きつつある動物であるということも。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

 

小学校の頃暗記させられた平家物語のフレーズを最近よく思い出して口ずさむ。可憐に咲く花を見つめてどきどきするくらい美しくみえるのは、咲き誇りきった末の姿を無意識に重ね合わせてあはれを感じるからではないか。

 

* * * *

 

水害の報道にメメントモリを思う。

私が人生のなかで感じた屈託やよろこびは肉体がほころび尽きたそのとき水平線にかえり、すべてが意味をなさなくなる……そう考える。そのようにして水はすべてを乱暴に薙ぎ、記憶をさらっていく。前触れもなく他人の魂が失われるつらさを思うとやるせなく、もし自分の家が泥水に汚され押し流され、親しい人を奪われる身にあったのなら、これは天命だったのだと思うことでしか自分を慰められないだろう。

 

いつか無に帰するときが来るまで、私は人生を全うしていたい、今はそう思う。近い未来の目標もできた。生きるということ、むつかしいけれど、いつも音楽や文学、人に助けられている。

 

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