なめらかな日々

水のように生きたい

視線に生かされる

 ごくたまに、人に見つけられる。

 中学時代通っていた塾で事務をやっていた丸眼鏡の彼女は、なんにもしていないしむしろ変なところしか見せていないのに私のことをかなり好意的に見てくれていた。高校時代には友人から、同性の友達がバレーをやっているとき(私の高校ではスポーツイベントがあり、私は渋々バレーを他クラスを前にやっていた)のあなたのことを好意的に言っていたよと告げられ動揺した覚えがある。お姉ちゃんの同級生であるSはずっと私のことを気にかけてくれていた。誰も見ちゃいないと思いきや、目ざとい人は私のことを見守ってくれているのだ。私は人の目が届く日なたにいる。だから私は今死ぬべき時期ではないんだろうなあと思う。もっとも今死ぬつもりなど毛頭ない。デザインが順調で楽しいし、文章を書いて思うような表現ができると嬉しい。でも、やっぱり私はどこか偶然性を望んでいる。今週から飛行機に乗って東京に行くが、墜落しないかなあとか、ハイジャックとかあればいいなあとか、心の底で一ミリくらい思っている自分がいる。実際に起こればおそらく私は恐慌するのだと思うけれども、もしかしたらわたしは落ち着いているのかも。そのときになってみないとわからない。死ぬことも同様で、地獄とか輪廻とか土に還るとかいったって、死んでみないとわからないのだ。だから私は早く死を見てみたい。それはゆううつじゃなく、好奇心によるものだ。とりあえず今は自殺する気なし。人に囲まれながら、10代を謳歌しよう。


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