なめらかな日々

水のように生きたい

金原ひとみの新境地。「アタラクシア」所感

金原ひとみ『アタラクシア』を読了した。

アタラクシア

アタラクシア

 本を読んでいて楽しいと、果実の甘い蜜だけを吸いとって堪能しているような官能的な感覚になることがある。本作はじわじわと上昇していき、ピークを迎えてもなお上がり続けるような高揚感を感じた。私は金原ひとみの作品たちをこれまでなぞってきたが、全純文学作品の中でもっとも好きな『アッシュベイビー』の次か、肩を並べるくらい素晴らしい作品だと感じる。読了した際は感動で眼にじわりと涙がたまるほどだった。その初読の感動と作品論めいたものを忘れぬうちにしたためておこうと思う。深層部までのネタバレは控える。

 私は金原ひとみの代表作品「蛇にピアス」と2015年に高校の図書館で初めて出会って以来、金原作品を辿るように追ってきた。主に読書の際には図書館を利用するため読めていない作品は数本あるが、金原ひとみの作品の特徴はおおよそつかめているはずである。「アタラクシア」の出版情報を知ったのは刊行された数日後で、あらすじを見て面白そうだ、と思った。

由依(ゆい)はパリで暮らしていたときに知り合ったフレンチ・レストランのオーナーシェフ、瑛人(えいと)とつき合っている。だが、彼女には小説家の夫、桂(けい)がいた。桂は妻に強く惹かれながら、どうしたら彼女が幸せになるのか、ずっとわからないまま過ごしてきた。そして由依の友人、真奈美(まなみ)は暴力を振るう夫との関係に疲れ、不倫でその不満を発散させている……。
『アタラクシア』は心の平穏を求めながら、欲望に振り回され、手探りで生きる人々の姿を、解像度高く描き出した長篇小説。

 そして、面白そう、と思うと同時に結婚を題材にしてるのかあ、と諦観に似た覚悟を持ったことを覚えている。
 私は19歳の大学生で、自分と同年齢か少し上ほどの主人公である蛇にピアス (集英社文庫)(2004)やアッシュベイビー (集英社文庫)(2004)は、自分と年齢層や環境が近い一人称に親しみを感じて強く惹きつけられた。金原作品でもそういったものを追い求めてきたところがあった。母親としての視点から書かれた小説と自分の視点が重なるのか、わかりやすく言えば今の自分がそういった小説を楽しんで読めるのか。少し懸念していたのだ。
 もし金原ひとみフリークの未読者の中に私と同じ考えを抱く方がいれば、そんな心配は要らないと声を大にして言いたい。そんな心配は全くもって杞憂だった。
 本作の特徴のひとつとして、過去作品の要素が各所に感じられることがあげられる。持たざる者(2015)に描かれていた震災や海外移住のこと、また群像劇という手法も過去作品にはあったし、軽薄 (新潮文庫)(2016)に題材として用いられた「軽薄」という言葉も繰り返し使われて印象を深めていた。金原ひとみの作品群は共通項が多いために自身の環境に近いものや作者の感情をそのまま取り入れているような印象を受ける。そういった変わらない部分もありつつあることを確認しながら読み進めた。
また、強烈な個性と魅力・変態性を持った登場人物も魅力的だった。Twitterで知り合った女を優しく懐柔し、罵りながら首絞めしつつ性行為におよぶ「ユウト」、萌え系の盗作ラノベ作家で、気に入った女を見ればストーキングする「桂」の個性に好感を持った。どの登場人物も私の生活環境下ではお目にかかれない奇特な人々ばかりなのだが、とりわけ印象をわからなくさせたのは桂の妻である主人公・由依だ。
 冒頭ではまず由依の一人称から入る。由依は瑛人という男と不倫をしていて、冒頭部分では瑛人と一緒にいて幸せでたまらない、幸福にふやけた能天気な女を思わせるものの、桂や他の人々といるときの彼女は打って変わって感情を表に出さない人造人間のような無感情を思わせる。「何を考えているのかわからない」と家族にまで囁かれ、非難にあったり嫉妬されている。マスクを持っているように見えるのは由依だけではなくて、前述したユウトも多角的な内面を持っており、場面によって別人のように振る舞いを変える。群像劇の手法で人物の解像度が高くなっていくのが小気味好く感じる反面、様々な表情を見せる人物像は常に視点によって揺れ動き、「◯◯は□□な人間だ」という私たち読者が無意識に抱くステレオタイプを破棄していく。
 「アタラクシア」のネットインタビューから引用。

金原
人のことってわからないな、と、ここ数年実感することが多かったんです。親しくなった人に、意外な過去があったり、表面からはわからない問題を抱えていることを知ったりする機会が多くて。そういうときに、いままで知っていたその人と少しブレた像が見えてきて、時空がゆがむような感覚を味わうこともありました。

金原
一人の人間の中にいろんな面があって、それぞれが全部本当。あの顔はうそだった、というのはないと思います。

アタラクシア|金原ひとみ|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブロー

 読了後にこのインタビューを見たとき、視界がぱっと晴れて謎が解けた気がした。誰もがその人を掴もうとする。スキーマから要素を導き出し、あの人はああいう人だ、と押し付けて安心してしまう。それは暴力的なコミュニケーションである反面、ごくありふれたことだ。
 私がもう二度と会うことのない先輩を例に出す。私が大学一年当時サークルに入り、親切によく話しかけてくれる三年の先輩がいた。私が部内で見る彼は同級生と仲が良く、優しい人に見えた。私の同級生がその先輩を嫌っていても彼に非はないのではないかと考えていた。
 その先輩が嫌われていた理由を知ったのはつい最近だ。彼が当時二年だったとき、先輩方の卒部を祝うために各部員から集金をすることになったさい、払いたくない、と断固拒否したそうだ。先輩の行動が原因で、祝卒の機会は永遠に潰えたらしい。「懐が深い」「優しい」と意識的に先輩へレッテル貼りをしていた私はひどく驚いた。でも、「後輩に対して優しい彼」もまた先輩の一面ではないか、と思うのだ。もう退学してしまって会う機会は失せたが、私はその他の''クズエピソード''を聞いても先輩を嫌いになったりしなかった。ただ、主人公・由依の無表情さに対する桂の苦悩のように、彼のことが「よくわからなくなった」だけだ。桂は今までの作品には出てこなかったような陰湿な方向の粘着質さを持つ(インタビューを読むまで、金原ひとみ自身が嫌悪しそうな人物だと思っていた)が、「愛する人を理解できない」という小説の根幹に近い悩みを抱えている。不倫でフラストレーションを発散させている真奈美の方が過去作品の主人公たちに近い人物像である印象を受けたけれども、もしかすると、桂は金原ひとみの内面をもっとも映し出した人物なのではないかと思った。

 また、言わずもがな金原ひとみの作品全体を通して濃密に描かれているのは男女の愛だ。今作も結婚を取り巻く物語からして同様に不倫をしたりされたりする男女が激しい性描写とともに形態化されていた。しかし、過去作品と比較して変化しているのは、「アッシュベイビー」や「蛇にピアス」に見られる「愛する人に殺されたい」という特殊な恋愛観の動機が明確に解き明かされているところだ。
 「アッシュベイビー」では、主人公が熱烈に愛してやまない謎めいた男「村野」に殺してほしいと心中で思うだけで、なぜ殺してほしいのかは語られていなかった。私は「殺して欲しい」という考えは、もともと備わった希死念慮から発端する[最良の形で死を遂げたい]という願望であって、「死にたい(=殺されたい)」>「愛されたい」と解釈していた。
 由依の妹、「理枝」が一人称になる場面で彼女がこぼした独白。

「誰かに猛烈に愛されたい。殺されるくらい愛されたい。猛烈に愛されて愛の言葉を囁かれその瞬間に殺されたい」

 これによって、金原ひとみの世界に共通する「愛する人に殺されたい」という動機の読み込みが転換した。
 「殺されるくらい愛されたい」。明らかに「死にたい」よりも「愛されたい」の比重で上回っていることがわかる。現実的に考えれば、愛が動機であれ殺人をすれば実名が公表され、逮捕され、懲役を受ける。そういった犠牲ないし殺人に至る労力を払ってまで「殺す」ことが、理枝にとっては愛することの最上級の表現なのではないか。この場合は「死にたい≠殺されたい」という関係式が成り立つ。また、理枝の心境は「この瞬間にい続けたいという願いは自殺願望」ともモノローグで表されている。この自殺願望は「死にたい」でなくて「愛する人に殺されたい」という愛から派生した欲求なのではないか。「自殺願望≒愛する人に殺されたい」・「この瞬間にい続けたいという願い」をイコール関係で結べば、愛され続けながら殺されたい、とも導き出せる。
 つまり、作品の中でたびたび登場する特殊に思える思考「愛する人に殺されたい」という思考は、愛され続けたいという永遠を願う思いと破滅への懸念が火種となっているのではないだろうか。
 ここから、「アッシュベイビー」で村野に出会う前は退廃的な性生活を送っていたアヤが村野との性行為で喜びを見出していったように、希死念慮よりも愛への享受に夢中になり、「愛の終着点としての死」に魅せられた、というふうにも考えられる。
 「アタラクシア」では不倫し不倫され、由依は桂に対し不倫の引け目を微塵も感じさせないのに対し不倫相手の瑛人は逆に傷ついている。イケメンで遊び人である荒木という男も同様に不倫の被害者であり、軽い男に見えるものの傷を抱えている。「愛され続ける」ことを諦めたり捨てたりして破滅した、愛に振り回される人々の愛憎劇だ。

 由依は妹である理枝にこう語りかけている。

「最近皆自己主張だとか個性だとか、意識的であることに囚われてると思う。1番になりたいとか誰かの特別な存在でありたいなんて、強迫神経症的な欲望でしかないよ。誰も愛してなくても、誰からも愛されてなくても、普通に生きていけるようになるべきだと思う」。

 由依の言葉は、「愛する人に殺されたい」と欲求する妹やその他の人々を穏やかに批判する縫針であり、「アタラクシア」の世界では明らかに異質だ。
 不倫をしながらも無意識的な生き方をし、彼女が持つ愛さえも波立つことなく平静不動であろうとする彼女の心こそが「アタラクシア」だと、私は考える。


 最初に申し上げた通り、素晴らしい長篇小説だった。
 私にとって金原ひとみの文章は自分の心を切り開いてくれる鍵だ。もし金原ひとみ作品を未読の方がいれば、「アタラクシア」を強く勧めたいと思う。
 まだ一度読みしかしていないので、さらに読み進めてわかったことがあれば追記する。

 ご高覧ありがとうございました。