なめらかな日々

水のように生きたい

食べることってそんなにいいものなのか

    カップルや友人同士でパスタやサイドメニューを食べている。生きるために食べる人間の、何と滑稽で何と醜い事よ。私は三歩譲ってエスプレッソを飲んでいるのだ。せめて飲み物主食であればいいものを。彼らは何故、がつがつと物を口に入れるのだろう。

「AMEBIC」金原ひとみ

AMEBIC (集英社文庫)

 「アミービック」の主人公同様、私は食事を摂ることが好きではない。と言っても、お腹は空くし食べたいというものは思い浮かぶ。空腹を満たすために、生きるために食事をするのが苦痛なのだ。

理由の一つに、私が偏食であることがあげられる。今でこそ一般的に敬遠される食物が食べられないくらいのレベルにまで落ち着いたものの幼少期はもっと偏食がひどくて、カレーライスやグラタン・麻婆豆腐・コロッケなど子供に人気と思われる食べ物がまるで受け付けなかった。自分が食べていたものは肉と魚とキュウリしか記憶に残っていない。好きな食べ物というものが、長らく私の世界に存在しなかった。そのため現在そこそこ肉付きの良い四肢とは真逆の、小児骨格標本のような体をしていたように記憶している。

 今になって偏食は著しく改善したし、好物もたくさんできた。それでも普通の人より嫌いなものが多いという事実は変わらない。

 食事する空間が苦手だったということもある。食卓の場はほとんど食べられないものが並ぶ苦痛の空間でしかなかった。早々と食事を切り上げるともっと食べろと緩く言われ、再度椅子につかされて体が欲していない食べ物を渋々と口に運んだ。食卓にて食事する時間は面倒で退屈で、できれば避けたい。そんな意識が染み付いてしまった。自分が食物を食べるために口を開けて食らいつき、飲み込むという動作を他者に見られたくない。会食は苦手だ。

 それから、今最も憂慮している事由。自分が口にする食べ物を残念ながら、尊敬できないのだ。

 例えば、人から好きも嫌いも何の印象も持たない食物をもらったとしよう。その場合、私はまず自分で食べようとしない。「もったいない」精神にしたがって人にあげようとするだろう。もし貰い手が見つからなければ、私はどうするか。

 想像に難くない。私は食物を捨ててしまうのだ。「もったいないから自分が食べる」という思考は私にない。私が口に運ぶ予定のものはすべて、朽ちて醜くなってしまった紫陽花のように映る。アスファルトの上に残飯として打ち捨てられている死骸を想像してしまう。柔らかなクリームがたっぷりと乗ったパンケーキも、芳醇な味わいの肉塊も、食べるまでは本当に美味しそうに見えるのだ。口に含んでそれらを味わい尽くし、胃の中に収めれば漸次、自分を構成する物質を摂取してしまったことを小さく後悔する。何故ひとときの快楽のためにこんなものを口に運んでしまったのだろう、と自分が嫌になる時すらある。口に入れても物理的になかったことにできれば最高だが、それは消化器官と精神がおかしくなる恐れがあるため私はできないだろう。

  私が食べている資源をすべて、それを求めている人に捧げられたらどんなにいいことかと思う。早く食事しなくても生きられる新人類に進化したいものだ。