なめらかな日々

水のように生きたい

自然にふれる

 2019/05/26/17:21現在、私の手は小刻みに震えている。中程度の疲労と、一日への満足感がある。Macbookのキーボードを打つ手が震えているのは、きっと運動の反動だろうと思う。

 何の事は無い、私の習慣でないことを今日ひとりでやってみた。近所の山にひとりで登山しに行ったのである。なにも予定がない日曜日、学校の課題や読書など他にやりたいことはあったが、非日常への好奇心と、それと、体重減量への願望が勝ったと言える。

 

 13:30ごろ、私は家を出て、日差しの暑さにうんざりしながら足を進めていた。登山に当たって考えられる日射や虫との遭遇を考慮して、首元まで防御できる青ボーダーのポロシャツにスキニージーンズとシルバーのNEW BALANCEという出で立ちである。山へと通じる道は普段通らないものだから新鮮で、小学校の頃よく通った友達の家を見かけて猫の餌の匂いが充満した生活臭を思い出したり、成年漫画が捨てられていた裏山を道すがら瞥見した。あの頃好きだった男子の苗字と同じ名前が入っている公園はよく通ったものだった。お兄ちゃん的存在だった姉の同級生の家は表札が変わって、違う人の家になっているようだった。泥だらけの顔ではしゃぎまわっていた頃の記憶を懐かしく思っているうち、山へと続く公園に到着した。

 この山も小学生の頃、姉や友達と登った標高300mほどの初心者向けの山だ。登るのは7年ぶりになる。「岳」という漢字は読み方が「がく」と「たけ」のふた通りあり、読みの使い分けは山内で神様が祀られていると「たけ」、それ以外は「がく」であると父から聞いたことがある。この山の場合は「たけ」で、そういえばお地蔵さんがいたなあと思いながら鳥居をくぐった。

 まず登山をしていて序盤に感じたのは、強い不安だった。

 人気がない、登山者もいるかわからない山。2ちゃんねるの山に関する都市伝説を記憶していた私は自然の中にひとりで飛び込むことに突如恐怖し、なにかから逃げるように早足で歩いた。自分の身長の倍くらいの位置に鎮座する、赤い御衣を下げた地蔵はただ、不気味なだけだった。誰かから見られている気がして振り返ったり、物の怪のようなものが現れる想像をしてどんどん奇怪な方向へ幻想していったように思う。昆虫の死骸でも落ちているのか、ハエがしきりにたかる斜面にありもしない死体を想像して震えながら早足で登った。当然息は切れる。ついに限界が来て、木々のカーテンが日差しを遮る平坦な地面で観念して水筒に入れた烏龍茶を煽ると、渋みの効いた烏龍茶の味と冷たさがすぐに体の中へ浸透した。荒い呼吸を整える。

 不意に、黒と白の模様がある蝶の浮遊に目を奪われて上を見上げた。のちに調べるとモンキアゲハというらしい彼女は、ひらひらと舞ってどこからか現れてきた同種の仲間と戯れ、緑の隙間に消えていった。薄いレースを一枚かけたようなぼんやりした水色の空と、深緑と若葉色のまだら模様になった葉っぱたちは、風に吹かれるたびその表情を異にしている。徐々に落ち着いていく呼吸とともに、自然に対し感じていた排他感が消えていったのを感じた。

 今ここにいるのは、私と草や木や花、虫や鳥たちだけだ。変な夢想をしていたことが山に申し訳なくなるほど、山は誠実な姿勢で私を受け入れてくれているような、そんな気がした。

 一通り休憩してから、確かな足取りで踏みしめるように山を登った。そこからの道のりは楽しいものだった。かすかに思い出される登山コースの記憶の匂いをかいだり、「より安全なまき道です」と書かれた看板をあえて無視し、全面岩で構成されているロープなしの斜面を必死に登ったり、邂逅した黒っぽいニョロニョロを蛇とそら目してわくわくしたり(日本最大のミミズ・シーボルトミミズというらしい)。そうして夢中になって登っていると、気づけば私の住む街が一望できる頂上へと到達していた。

 記憶していた山頂にある神社を認めたのち、振り返ると目の前に広がる壮景は、思わず「すごい」とつぶやいてしまうほど心が揺り動かされるものだった。なにしろ、登頂は自分ひとりで成し得たものである。その成果を味わい、「他者と登り感想や景色を共有するのとは違う達成感がある」ということを私は今日知った。少し開放的な気分になり、団扇を仰ぎながら鼻歌など口ずさんだりもした。

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 時計を見ると、登頂までに要した時間は30分ほどだった。標高300mというと平均的には所要時間1時間ほどというので、最初に感じた山への恐怖が良いスパイスをもたらしてくれたのかもしれない。どれだけ狂乱しながら歩いてたんだ、と少し面白く思った。そこからまた下山したのも同様に30分ほどで、一時間ちょっとで私の登山計画は満了することができた。

 

 これからとくに予定もなかった。登山口に隣接する公園を訪れると、高台にある公園だからか広大かつ遊具の数も多いのに誰も居ない。ハンモック状のアスレチックがあるのを発見し、日傘をさしながらハンモックに寝そべってしばし目を瞑った。日傘からはみ出した太ももやふくらはぎに注ぐ強い熱。背中や頬を凪いでいく柔らかい風の感触が視界を閉ざしているからか鮮明に感じる。爽快だ……。あまりの心地よさに、何度も深呼吸をした。控えめな風音が、心地よいバッグ・グラウンド・ミュージックとなって浅いまどろみを誘ってくる。私をつつんでくれるような風を、満足するまで堪能した。

 それからは、植物や猫によそ見をしながら夕方になるまで近所を散歩した。


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 携帯の歩数計を見ると、9.7km散策したようである。あまり足は疲れていない。散歩好きな先輩曰く、行きの道は音楽を聴きながら歩き、帰りは何の音楽もかけない状態で日常音を楽しむという。散歩している間、私はずっと音楽を聴いていた。いつも通る道に音楽が染み付くのを期待しての行動だ。視覚・嗅覚・聴覚は常に記憶に影響を与えていて、特定の音楽を聴くと感情や風景が蘇ってくる。その感覚が好きだ。「STORY」/never young beachタワーレコードで聴いて気に入った「Father of the Bride」/Vampire weekend、「感謝(驚)」(Fishmans)を主にリピートしながら歩いた。記憶に音楽が定着したかは、まだわからない。

 

STORY

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This Life

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感謝 (驚)

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 今日の出来事はこれで全て。

 これはつい最近自分の中で開拓した個人的な意見だが  携帯を睨んで液晶の中を冒険するよりも、外に出て素朴な遊びをすることは一日に充足感を与えると思うし、今日の非日常的な時間の過ごし方をして、その考えがさらに強まった。

 

 ブログの終盤を書いている今現在はまだ21時半ばだというのに、少し眠気がある。早く眠りにつき、明日の営みに備えるとしよう。