なめらかな日々

水のように生きたい

描画体験と挫折


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 一週間ほどブログを更新していなかったので、近況をはじめに。

 夏、東京に行く計画を立てている。3年来のファンである、都心で活躍するインディーズバンドの新譜をひっさげたリリースツアーワンマンが気になっていたところ、ライブ仲間に誘われたことをきっかけに一人旅をすることになった。と言っても、SNSで懇意にしてくださっている方が親切にも案内を引き受けてくれるというのであまり不安に思っているところはない。 

 旅程では、上野に行き科学博物館か美術館かを見に行く手はずとなっている。小さい頃から美術館や博物館の類を見て回るのが好きなので、ライブの次に楽しみな予定だ。

 

 さて、最近のことだ。或るはずみから回顧した私の記憶について書こうと思う。

 

 私は総合大学の芸術学部でデザインを学んでいるが、必修科目としてデザインや美術の成り立ちを考える座学の基礎科目がある。

 先週の授業のことだった。教授は芸術学部の生徒しかいない教室の中、「絵を描くのが好きな人、手をあげてください」と訴え、私はなんの躊躇いもなく挙手をした。何も考えることはなく、長年の慣習から私は絵を描くことが好きだ、と信じきっていた。芸術学部とひとくちに言っても工学系の生徒もいるからか、意外にも周りの生徒の挙手はまばらである。私と同じ学科の子もあげていない人がちらほらといて、私は少し不思議に思った。

 教授は目視で挙手数を数えたのち、生徒らに向かってこう切り出した。

「では、なぜきみたちは絵を描くことが好きなんですか」。

 教授はペーパーを配り、絵を描くことが好きな理由、好きでなければ嫌いになった理由について書くよう示された紙が私のもとに届いた。筆を迷わせながらも「好きなものを自分で創造できることに楽しさを感じるから」、だいたいこんなことを書いたと思う。授業が終わったあとも、その日はずっとその問いについて考えていた。教授は難しい問いかけだと言ったものの、私は暫時答えに窮した。その事実が引っかかっていたのだ。いや、そもそも私は描くことが好きなのか、と当然に思っていたことが疑わしくなってきたのである。

 

 私が描くことを始めたのは小学校一年生の頃だった。落書き帳を買い与えられ、その白さに無限の可能性を感じた。最初に夢中になったのは色鉛筆だ。木の幹をたくさん描き、それに買ってもらった色鉛筆で自分がきれいだと思う色を組み合わせながら異なるパターンの葉っぱを木の幹に一つずつ描いた。

 私の創作活動はあまり肯定されなかった。ピンクや紫や水色で構成された木が一番お気に入りだったが、男子に冗談で「こんな木ないと思うけど」と言われて傷ついたこと、国語の教科書の表紙に書かれた「国語」というフォントを模写しているとクラスの女の子に信じられないと言いたげな目で見られたことを克明に覚えている。あの頃は女の子とつるむのがいやで、近くの席のタイシとムネハル、ユウトと追いかけあっていたことしか覚えていない。新品できらきらして、期待につつまれた幼い私がいる、悲しき児童期。ーー少し脱線したーーまた、私は自分の作品をごく自然に蔑んでいた。自分自身を描いた似顔絵を女の子に見られたとき「上手い!」と言われて、何を言ってるんだろうこの人は、そんなわけがない、と思ったことも古い記憶として残っている。

 好きなものを自分で創造できる楽しさは、その時期確かに感じたためにペーパーには記入できた。

 翻って、今現在の私に近い描画体験を掘り起こしていくうち、安物の絆創膏を貼って隠した悪しき記憶に直ぐ突き当たったのである。

 あの時を思い出すにつれ、顔をそむけたくなるような古傷が繰り返し、繰り返しえぐられていくような感覚がある。まだ整理がついていないことだ。書けるところまで書こうと思う。


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 生傷というのは、私が二年前画用紙と鉛筆と時間を消費して描きつづけていた、そして挫折体験を引き起こしたデッサンのことだ。2枚のデッサンは部屋の整理をしているときに見つけた、デザインケースに格納されていたものたちだ。(一部光飛びしてしまい、見づらくて申し訳ない・・)



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「おそれ」/https://ncode.syosetu.com/n8082fl/

 

 過去の拙作である、私小説じみた創作作品『おそれ』の作中にもデッサンに対する所感を投影させて書いた。

 授業で教授の問いかけを聞くまではまさに『私の記憶から消去されつつある薄い存在』であったからこそ、私はなんの抵抗もなく「描くことが好きだ」と言い切れたのだ。いざ振り返ってみると、何十枚もデッサンを描いたのにもかかわらず影のエッジやガーゼでこすった箇所・講師からアドバイスを受けたところなどデッサンひとつひとつの記憶を明晰に思い出せた。デザインケースの中を探したが、ラボルト像を描いたはずの木炭紙は残っていなかった。石膏デッサンは静物デッサンとは描きかたが少し異なる。静物以上に立体・奥行きを表現することが求められるほか、石膏の顔を人物として描かず、模様として描く思考法のもと描かなければならない。その考え方の転換が難しく、結局自分なりの石膏像の描き方はつかめずに潰えてしまったのだった。

 それまで、私は美術の授業などでデッサンすることを楽しく感じていた。学校内でも周りと比較され褒められることが多く、自分は絵が描ける、と思いこんでいた。

 

 ひとことで言えば、私は劣等生だったのだ。デッサンスクールに通っていた当時、周りはタマビ・ムサビ・藝大をねらう浪人生や芸術系の高校に通う生徒ばかりだった。地元の大学を目指す自分の作品と彼・彼女の作品を講評で比較する機会は否応なしに繰り返し与えられた。ハイレベルな描画をする生徒らからは、私が目指す地方大学など眼中にも入っていなかったようだ。もちろん自分の他にも、技術的にはゆるい基準で入ることができる地方進学希望の生徒もいるにはいたが、やはり都心の美大キャンパス生活が現実のビジョンとして在る生徒のレベルには追いついていないように思えた。そうして楽しかったデッサンは段々と苦痛なものとなり、美術部で描いていた油絵やデザイン画さえその対象となった。美しいパース比率になっているか不安になったり、モチーフに対してタッチは正しいか、と自由に描けなくなっていった。ひょっとすると、私は彼や彼女らに嫉妬していたのかもしれない。スクールに年間100万も費やして受かるまで浪人を続け、スクールの倍以上する学費を支払うはずの美大へいざ行かむとする。その固い意思と環境と、才能に。デッサンの筆どりに魅せられていた。自分には決してこんなデッサンは描けないということを噛み締めながら。

 

 私はそれらの苦しい思い出を、手の届かないところに丸ごと格納していたのだ。

 

 もちろん、私はエピソード記憶を完全に忘却していたのではない。

 前置きとして話題に出した美術館然り、画家の個展に行けば絵画の習作のようなラフ画やデッサンが大抵展示されている。そういったものを見ると自分の描いた作品と比較してしまう自分がいるし、決して消えない記憶ではあるのだ。

 

 しかし、絵が好きかどうかと聞かれ、躊躇うことなく好きだ、と結論を出した自分がいるのも事実だ。美術が好きである。美術にふれて自分の中に取り入れることは快だ。もちろん油絵や水彩は今も描きたいと思うし(準備と片付けが大変で敬遠しつつあるが)、気が向いたときデジタルでほそぼそと絵を描いている。

   私は今、デザインの道にいる。アートとデザインは個別のものではなく、相互に共通事項が重なり合っている。忘れたいような、でも全て忘れてしまっても勿体なくて、無駄にしたくないような記憶。それがわたしの描画体験である。

 

 

  大好きなインディーズバンドのワンマンライブまで二ヶ月を切った。今週はサカナクション、楽しみ!

yeeeyeee

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