なめらかな日々

水のように生きたい

美術館と思案

f:id:nrrhn:20190520161225j:plain 先週の土曜日のことである。友達と美術館に行き、思いつくままに喋り、楽しい時間を過ごした。思いついたので、ここであの一日を振り返らせて欲しい。美術館には常設展を見に行った。二年ほど改装中だった市の美術館がようやくオープンした記念展であり、実は見にいくのは二回目だ。レンガ調の建物で、外観的にも中の構造もあまり変化を見つけることはなかったし、草間彌生のオブジェは健在であった。

……余談だが私は草間彌生の良さが理解できない。理解しようとはしているがあまり魅せられない。草間彌生の良さをプレゼンテーションしてくれる方、募集中です。

 少し脱線した。記念展はとても楽しかった。三島由紀夫澁澤龍彦が愛したと言われる藤野一友という画家のシュルレアリスム作品を見てああだこうだと想像を膨らませたり、ダリの作品の描写が重厚であることに感嘆したり、作品に心を動かされることに私は快楽を感じていた。しかし、どうしても理解できなかったものがあり、これは悩まされた。サラ・ルーカスのインスタレーション作品である。3つほどの小さなキューブ型の台に点々と潰した日本製ビールの空き缶が並べられ、合間を縫うようにポートレート風の写真が置かれていた。作者自身が美術館に隣接している公園の芝生の上で、ビールのプルタブを押してビールを吹きこぼしたり他種類のビールを並べてカメラ目線に座っている写真など、凡そメッセージ性を感じとれないものであった。私の隣で見ていたスーツ姿の40代前半ほどに見える男性が、「これはただの空き缶じゃないの……(笑)」と苦笑しながら隣に並ぶ連れの女性に同意を求めていた。1回目にこの作品を見たとき早々に考察を放棄してしまったが、このおじさんの言葉を聞き、作品のメッセージを読み解くべく作品の前に長時間とどまり続けることを覚悟した。一人のおじさんが私を変えたのである。失礼なことだが、このおじさんと一緒にはなりたくないという私の矜持がそうさせたとも言う。キャプションには「ジェンダーの非対称を描いたインスタレーション」とあった。しかし、私の感受性ではジェンダーに関する暗喩やシンボライズされた輪郭のようなものは感じられず、私は大いに苦悩した。空き缶は潰されたものが横に倒されていて、それに仁王立ちするように同じ種類のビール缶があつらえられていた。仁王立ちしているビール缶はよく見れば下のアルミ部分がハサミのようなもので粗く切られ、ふたつのアルミ缶が融合しているようなかっこうになっていた。タイトルは「ラブ・トレイン」である。ラブという抽象的な概念に、作品上に出てこないトレイン……トレインと言えば人々を輸送する……走らせるもの……。ラブは愛、男女、2つの缶を男女になぞらえている、というのは短絡的か……?
 しゃがみこんで空き缶のディティールを確認したり、写真と睨めっこしていた時間はおよそ10分ほどだろうか。試行錯誤した挙げ句、他のインスタレーションの映像作品を見終わって近づいてきた友達につぶやいた。これ、全然わからんっちゃけど。困惑をそのまま言葉にすると、無口気味な友達はうん、と笑いながらうなずいた。彼女は私よりも思考を言葉にしない質なのでそれ以上の会話は諦め、結局サラ・ルーカスの意図は読み取れないまま展示室をあとにしたのが悔しかった。ルーカスの作品をインターネットで見たところ、男性器を模したオブジェや下着を履いた椅子、人間の四肢あるいはミミズに似た黄橙色の曲体など、自然というよりは生命、人間に焦点を当てたような作品が多かった。また訪れる際は必ずやサラ・ルーカスの意図を読み取るべく知見を広げようと思う。
 他にもたくさん楽しい作品があったが、誰もが目を留める作品は『虚ろなる母』/アニッシュ・カプーアであろうかと思う。参考画像。

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 縦横幅、だいたい2m超ほどの大きな物体がモダンアートの展示室に鎮座ましましている。大きな口を開けるごとく私の前にひらくダークホールは暗闇で、どのくらい深さがあるのかわからない。柔らかな繊維の見える素材は窓際の光に照らされ、素朴な優しさを見せていた。一転、正面からじっと見つめていると空洞のはずが中身が詰まった半円状の物体に見え、彼女は開放的に私を包みながらも時々冷たく拒絶し、私を戸惑わせた。虚ろなる母。まさに優しさと厳しさを内包する母親という存在を連想させる、大胆かつ明快な作品だった。

 

 美術館の振り返りはこんなものだろうか。私は一つの展覧会に二回も行ったことがない。もっと言えばこれは常設展の作品を集めたリニューアル展で、もう一度見ようと思えばいつだって見られるのである。それにもかかわらず行こうとしたのは、ある疑念を検証するためであった。私は4月に恋人と別れ、この一ヶ月の間「好き」とは何か、「愛する」とは何か、を考えてきた。1回目はその相手と美術館のリニューアル展を訪れたのである。彼と別れ、それでもなお「美術館に再訪したい」という感情は彼と行った思い出への執着から来るものなのか、単純に私の美術に対する知的好奇心によるものなのかを知りたかった。2回目の来場を終えたが、検証の答えは出なかった。好きとか愛することがなんなのかも解らない。彼がいない美術館は滞りなく楽しめるものだったし、また行きたいとすら思う。彼はこのソファに座って資料集を見ていたな、とか、子供の頃好きだったという作品をじっと見ていた後ろ姿をふと思い出した。それを思い出すにあたり寂しいとか、戻りたいという感情があったかはわからないが、少なくとも私の表層の意識下では感じられなかった。何の感情も伴わない記憶を作業的に思い出した感覚に近かった。そう考えると私は彼に未練はないと言えるかもしれない。しかしその結論にも違和感がある。つまり決着がついていないまま、靄がかった記憶を抱えているのだ。そうして記憶も徐々に薄まり、新しい道を歩んでいくのかもしれない。それは私にとってとてもいいことである。新しい気づきを得た土曜日だった。

 

  今日は通学中にFishmansのアルバムを少々、''ソウルソング''リストと、「ロングハローグッバイ」/Special favorite musicを聴いた。どう略すのかわからないが、とても耳障りのいい音楽である。そつのない、苦味のない爽やかな曲だ。無難とでも言おうか、そう言う点ではサイダーガールというバンドの楽曲性に近いと思った。

ロングハローグッバイ

ロングハローグッバイ

  • Special Favorite Music
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes