女性性をうざがりながら受容する人生。
数日前、ツイッターでこんな意見を目にした。
昔えげつない下ネタを連発する男友達に「いい加減やめてよ」って言ったら「え、だってお前もバイトのとき今日生理〜とか言ってたじゃん」って返されてどういうこと?って思考停止したことがある。私的には体調が悪いから迷惑かけてごめんって意味だったけど生理申告を下ネタだと思ってる人はガチでいる
— とどろん (@todoron_sk) October 19, 2019
リプライには、お腹を痛めて苦しむのに下ネタと言わないでほしい、無神経だ、みたいな女性の意見が多くあった。
そういう人の気持ちを汲むことはできるけれど、私はこれについてちょっと疑問を感じた。
"女性特有のもの"を口にすること
そもそも性的な関係が発生していない異性に「今、私生理」と報告する必要はあるだろうか。
例えば、私は実父に「今生理なんだよね」なんて絶対に言わない。毎月子宮から血を垂れ流す生々しい下半身事情を、万が一にも想像してもらいたくないからだ。男性の中には当然女性に興味がない人もいて、そういう人からしたらセクシュアル・ハラスメント的な悪印象を持つ可能性もないとは言えない。
「生理」を男性に置き換えてみると、男性器においての生理とは、「勃起」や「射精」に置換できるのではないか。そういった生理現象の報告を、異性の知人にされてどんな気分になるだろう?
少なくとも、デリカシーに欠ける人なんだなと私は認識する。これが女性になると身体の不調に係るため容認されるべき事項になる、というのが、ちょっと私にはわからない。
つまるところ、私にとって「対男性の生理の話題」とは「私は女性器を持つ女性です、私を女として見てください」という一種のセックスアピールのようにも思えるのだ。
それで男性側から生理が下ネタとして解釈されるのは至極当然なことであるし、それに対して「生理を下ネタ扱いするな」と憤るのは逆ギレのようなものではないか、とここでは主張したい。
性への抵抗と従順
話は変わって、私の大学は「女性に優しい大学」と銘打って女性専用ルームが学内に2つもある。しかし、特別優遇する必要性はあるだろうか?と思う。女性はか弱いので守ってあげる対象、みたいな根底意識が根ざしたもののように思えるのだ。
そう思いながら一方で、私は自分が女性であることの恩恵に預かりもする。
男性から受ける紳士的な振る舞いにはめっぽう弱いし、恋愛すると、私は自分の「女性性」に凭れかかって意中の男性に媚びだす。恋人がいる時期は美意識が異常に高まるし、相手によく見られるよう、また相手にふさわしい女性になるよう何らかの努力をする。その渦中にいるときは自分の媚びた態度に気づかないが、恋愛が終わればあのときのベタベタな自分気色悪い、と急に嫌悪しだす。
私は女性の特権から距離を置きたがりながら、「女性扱いされる場所」を必要としているのだ。
自分の性を忌避しながら利用する、それが女として生まれた私の宿命なのだろうか?
否。「性別」に頼りながら生きていかねばならないのは、性以外にアイデンティティがなく、人間性が未熟で空っぽだからだ。
ショーペンハウアーが「幸福について」という本のなかで、こんな言葉を残している。
誇りのなかでも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。すなわち個人としての特性が不足していなければ、何もわざわざ自分を含めた幾百万の人間が共通に具えている要素に訴えるはずがないからである。
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雑な引用をして申し訳ないが、この"無個性な人々"への皮肉は辛辣かつ的確で気持ちがいいほどだ。「民族的な誇り」を女性性と置き換えれば、私が考えていることに限りなく近い。
最近ジェンダーをテーマにした小説が増えている。LGBTQなどのセクシュアルマイノリティが受容されつつある時代性も理由の一つだろうが、一番は誰もが持っていて身近である「性」は題材として書きやすいということに、皆が気づき始めてきているからではないか。
強く魅力ある人間になるのは、今の私にとってとても難しい。この内面のもやを、是非とも創作活動に落とし込みたい。
最近随筆を書いても陰鬱な文章しか書けなくて、やっとちゃんと書けた。マイペースにやります。:)