なめらかな日々

水のように生きたい

希薄化する''わたし''

 自分の名前を呼ぶ癖が抜けない。

 私の下の名前はサラという。英語にすると「Sarah」で、「h」がついているのがかっこいいと定評がある。それはどうでもいいとして、昔から末っ子という立場にあるからかなんだかわからないが、一人称が幼稚なまま固定されている。「ウチ」という一人称はキャラでなくて、「あたし」などというのも気恥ずかしく、昔から「サラは〜」という一人称で高校生までやってきた。世間の風潮に軽く憤慨していた時期もあった。自分とはサラじゃないか。サラがサラと言って何が悪いんだ、子供っぽいとか言われてもサラだし。というふうに。大学生になってからはさすがに一人称が自分の名前というのは(他人だったらキャラ的に受け入れられるのかもしれないが)自分は無理だと思い「わたし」という一人称で呼ぶよう心がけてきた。だんだん脳内思考も「わたし」になってきて、ようやく精神年齢も年相応になってきたかと安心していた。

 それが何としたことか、最近脳内思考の自分がまた「サラ」になってしまっている。「サラはこれ好きじゃないし……」とか、文字に起こすとこういった具合に非常に幼稚な文面になってしまう。これは由々しき事態。恥ずかしい。とても恥ずかしい。解決の緒が見つからぬ。打ち解けるとついつい一人称を砕いてしまうから、誰に対しても心理的距離を置くことが間違いないのだけれど……机上の空論に過ぎないか。

 「わたし」という一人称が頭の中で定着したときは、自分という動き思考する肉体が名前を持つことが不思議でならなかった時期があった。鏡を見ても、あれ、これ自分なのか?なんでこの人間にサラという名前がついているのか、と肉体に名付けられた名前に違和感を感じていた。「わたし」という普遍的な一人称は、アイデンティティを薄める作用があるのかもしれない。最近一人称が自分の名前に戻ったのは、自分という存在を確保したいというような無意識の願望が高まっていたりして。ともかく自分のことはよくわからない。20歳までにはこの一人称を封印したい。

わたしがわたし

わたしがわたし