なめらかな日々

水のように生きたい

2019/9/16 学校図書館

・久しぶりに学校の図書館へ赴いた。田中慎弥のエッセイ『これからもそうだ。』を蔵書検索すると見つかったので、スマートフォンを片手に随筆欄を探した。学校で収蔵されている蔵書のバリエーションは、そこまで悪質なものではないが良くもない。近現代や美術や写真集やデザイン、ときには哲学指南書や精神医学といろんなジャンルを探してきたが、どの分野においてもスタンダードの範疇からブレない。今回読みたかった本があるのは幸いだった。探していたエッセイはすぐに見つかった。その場で読む予定はなかったのだが、人が少なくてゆったりと読めそうな雰囲気が漂っていたので、その閑散としたテーブル席に腰掛けてしばし本を読んだ。1時間半ほどは読んでいたと思う。移動する時間になったので続きはまた今度にして本をしまった。また、女流文学が読みたくなって小川洋子を借りた。「薬指の標本」という短編が大好きだ。

 ここは図書館なのに、本を読む私はマイノリティらしかった。私の大学だけではないかもしれないが、図書館のサイレントルームはもっぱらスマホを操作するための休憩室として使われている。本を探している人なんて滅多にいやしないし、たまに女学生がしゃがみこんで本を見分している、珍しいなと思って見るとその学生はあまり話したことのない文芸サークルの女子であったりする。身内かい、と思いつつ、その場をすみやかに去った。声をかけるのが気苦労だったので逃げたのだが、こういう非社交的な社会への態度は良くないなと後に思った。

 

 田中慎弥と言えばあの作品、『共喰い』はまだ読めていない。私が中学生のころ、芥川賞をとった田中慎弥がニュースで話題になっているのを見て、彼という人を知った。職を持たずにただ自分のやりたいことを貫く、俗にニートと呼ばれる人は皆こういう捻くれた人なのだろうか、と新人類を見たような思いだった。

 それから、田中慎弥という人がどことなく気になるようになり、インターネットで著書や肖像を検索した。「気になる」というのは要するに、彼の風貌がタイプだったということなのだと思う。そんな理由で近所の本屋にて『共喰い』を立ち読みしたのだったが、癖の強い方言が苦手で未だに読み通せていない。今読めばちょっと読みやすくなっているのではないかな、と期待している。

 積読もゆるやかに(切迫してはいるが)解消されつつあるので、落ち着いたら再読してみよう。

これからもそうだ。

これからもそうだ。

 

 

・夜10時なかばを回ったころだったが、気が向いていつもより遠回りなルートで帰った。 自転車を走らせていると、少しつめたい風が吹いて私をつつんだ。風に体表をおおわれているように、体の感覚はしめやかな夜の雰囲気と秋風にひたされていた。まろやかで邪気のない肌寒さだった。

 たまにしか通らない通りにある和風スナックのお店に明かりが灯されていた。どんなものなんだろう、フロアレディは着物を着ているのだろうか、といつもそちらをよそ見しながら通っていたのだが、今日初めてその店から音沙汰をうかがえた。「ニアピンどころじゃねえよ」と言ってわっはっはと笑う若くはない男性の声がして、お姉さんの大雑把な笑い声も聞こえて、これがスナックというものなのかと感心した。友人がスナックの仕事をやっていたと聞いたので想像してみたが、友人があのとき聞こえてきたお姉さんのように下品に笑って接待する姿はどうにも思い浮かべることができなかった。

 

 暗がりの住宅街を抜けているとサバトラの猫がいて、しかも人間でいうと中学一年生くらいの小柄な猫だった。住民が棄てたゴミ袋に、その小柄な猫が頭を突っ込めるくらいの穴が開いている。他に大人の黒猫もいたのでそちらがやったのかもしれない。撫でてあげられたらいいなと思って自転車を停め、猫の目線までしゃがみこんで近づいた。猫はこちらを警戒しながらもゴミ袋への関心はやめず、こちらに目をやりながらもそろそろと体を動かしているさまは軟体動物のようだった。猫も大変だなあ、と思って再び自転車に乗りながら、スピッツが「猫になりたい」という曲を歌っていたなと思い出された。世間では老いない、ロビンソンやチェリーを歌っていた頃のままだとよく言われているけれど、あの頃の草野さんの声は若く、鉛筆の「2H」くらいの硬さがあった。それもうんとロックに尖ったやつだ。今は皺がかすかに寄った深みのある声で、どちらも大好きだ。「ありがとさん」という曲、良い。