なめらかな日々

水のように生きたい

読書遍歴

 「読書垢」を自称される方を拝見していると、自分はやはり読書の幅が狭いなと思わずにはいられない。ささやかながら、生活のそばには本がある。

 すこし自分の記憶をたどってみようと思う。

 

 小学生の頃はずっと何かしらを読んでいた。

 内容はすべて抜けているが、最初に傾倒したのは江戸川乱歩の「明智小五郎シリーズ」。

 劇画調で書かれたリアリスティックな表紙絵は今でも印象的で、画像検索を眺めているうち、私が最も好きだったのは「搭上の奇術師」だったなあと思い出された。相当読み返したのだろうと思う。透明怪人、サーカスの怪人、夜行人間。表紙の一つ一つが記憶と馴染みがあり、しびれるような懐かしみとともに蘇る。「怪人二重面相」がシリーズで一番有名な作品ではなかったか?朧な記憶だが。

 そのほか、娯楽的な軽い読み物を読んでいた。児童文学や、伝記や、ライトノベルなど。小学校のころ、「昼休みは全員外に出て遊ぶ」という内向家にとっては悪しき風習があったので、私は図書室にしばしば逃げていた。

 

 中学の頃、いわゆる「純文学」をそれと知らず初めて触れた。村上春樹との出会いだった。

 分厚い本なのに「1Q84」を追いかける目が、手が止まらなかった。田舎だからできることだが、中学生時代に本を読みながら通学路を闊歩する登校習慣が身についたのはこの本のせい  もとい、おかげである。

 こじんまりとした学校の図書館に、村上龍小川洋子重松清山田詠美浅田次郎といった錚々たる現代文学作家たちのアンソロジー「はじめての文学」シリーズが配架されてあったことは幸運というべきだが、それらを読んでも、いいなあ、この本すきー、と思うだけでまだ誰か作家にはまることはなかった。いろんな作家をタイトルや表紙を選り好みし読み漁っていた理由は単純で、この頃の私に一つの作者の作品を読み通すという概念がなかったのだ。純文学とは図書館にある本がすべて。ない本は存在しないようなもので、純文学小説を買うという発想はありえなかった。

 綿矢りさとのファーストコンタクトは「蹴りたい背中」、攻撃的なタイトルに惹かれた。横には「インストール」しか並んでいなかったけれど、綿矢りさという作家を好きになるのには十分な二冊だった。

 いたく感銘を受けた天童荒太「悼む人」は硬派な純文学といった感じの小説で、あのような本を若い頃に読めたことを嬉しく思う。

 長く忘却していて今思い出したが、星新一を読み潰していた。ショート・ショートは全作品を読んだと自信を持って言える。それくらい好きだった。ほか、相当ライトノベルに時間を費やしていた。 

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 
悼む人

悼む人

 
 

 高校生の頃は、部活動もあって少し文学から遠ざかってしまった。有島武郎を筆頭として、近現代文学をじわじわと読みはじめたのはこの頃。あとは選択科目だった高校倫理に心酔し、読書姿勢として良いものかわからないが哲学書を「頑張って」読んでいた。

 

 そして、私は運命的な出会いを果たした。

 金原ひとみ蛇にピアス」との邂逅である。なにこれ、と思った。みるみるうちに残ページが少なくなっていくのをあれほど残念に思ったことはない。今までに読んだことのない猥雑な性描写とともに、鈍くかがやく自死願望が浮かんでは沈む、主人公が持つ生への乱暴さ。ぐったりとしていながら生き生きとしたアンダーグラウンドに完全に虜になってしまったのだ。金原ひとみは私が最も好きな小説家となったし、おそらくあの作品に出会うのは必然だったはずだ。おこがましくも、自分の代弁者のようにも思ってしまっている。

蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

 

 そして現在にいたる。

 

 もっと遡れば  幼少の折、世界民話・童話を読み聞かせてもらったことが、読書の世界への架橋となったことは明晰だ。親しみ深いグリム童話には「捨て子」「暗殺」「監禁」などといった物騒なテーマがメルヘンチックに描かれている。ペローの「青ひげ」という話など  私がもっとも好きな話だが  あれを子供に読ませようと思うのがどうかしている。おどろおどろしく、どこか普通じゃない殺伐とした物語への興味が、「蛇にピアス」や「アッシュベイビー」に導かせてくれたのだから、本が潤沢にあった環境というのは何物にも代え難いと顧みている。

 

 総括すると、自分はあまり本を読んでいないなと思う。

 私は大学生の身。まだ社会に出るには猶予期間があるので、今興味がある海外文学や芸術史、そのほか他者が読む本もたくさん吸収して知見を広げたい。